国民投票法が出来ちゃった

 参加者のbunzoです。国民投票法が可決された時に(法律の問題点はここでは措くとして)「国民投票」の「重さ」について考え込んでしまいました。
 参議院選挙が近い時期にこういうことを言うのも何ですが、例えばマニフェストを見ていても100%意見の一致を見るマニフェストなんてまずありません。
結果として「ゆずれる部分」は妥協して、「絶対にゆずれない部分」を中心に検討することになる訳です。何だか抱き合わせ商法のような気もしないでもありませんが・・・。

 さて、このことを逆に考えてみると「人間」や「政党」を選ぶ選挙制度ではマニフェストなんか読まなくても候補者の印象や知名度、あるいは自分の生活にじかにかかわる利益だけに目を向けて「俺は難しいことはわかんねえから、偉い先生たちにお任せするさ」という「丸投げ」で済む気楽さがあったとも言えます。
年金が払われないのは困る。増税も嫌だ。そこは庶民も怒るぞ。それ以外は難しいから偉い先生におまかせだ・・・


 ところが憲法を変えるには96条の規定で国民投票によって決めることになっています(何故憲法だけが特別なの?という疑問もあるかもしれませんが、それはまたの機会に・・・)。
偉い先生ではなく私たち自身が自分で決めなければいけません。
先日決まった国民投票法によれば関連する項目ごとに我々有権者が判断をすることになってますが、現在唯一発表されている自民党の新憲法案は多くの条文にまたがっていますから、一ヶ所だけ見ればいいというものではありません。
実質全部読んで勉強しなければならないんです。
この上、他の案が出てきた日には現行憲法自民党の案と他の案とを全部読んで比較検討しなければ投票出来ないことになります。
みんながみんな大学の法学部を出た訳でもあるまいし、これってかなり大変なことです。

 ここで皆さんに質問です。
1.日本国憲法をちゃんと読んだことありますか?
2.憲法を「ちょっと偉い法律」とか思ってませんか?
3.現在提出されている「改憲案」がいくつあるか知っていますか?

 上の質問のうち一つでも「いいえ」があると投票時の判断のための材料が決定的に不足していることになります。
なんせ憲法の場合は直接投票ですから、投票する側にものすごい知識を要求してくることになりますし、選択(決まったこと)に対する責任が直接降りかかります。「難しいことわからないから」はありえない前提です。
 
 こう考えてくると「不備」と言われていた国民投票法が出来てしまったことによって我々有権者の知識や勉強の「不備」が浮かび上がって来てしまいました。
「そもそも義務教育でそこまで教えてないじゃないか!」というお怒りはごもっともですが、とにもかくにも投票があるかもしれない、あるかもしれない以上は勉強しなきゃいけない。

何とも国民投票法は私たちに重た〜〜い責任を負わせてくれたものですね(元々あった訳ですが)。
そういう意味で、改憲を唱える人たちも護憲を叫ぶ人たちも共に「現行憲法を読むこと」をまず呼び掛けないことが不思議でなりません。
中学の公民の内容も少し変えたほうが良いような気もします。まして十八歳で投票可能なら高校で扱う必要も議論しなければならないでしょう。
 
 憲法は国家に国民が突きつけた「縛り」ですから、これを変えることについて一票を投じたり意見を言ったりすることは極めて重要な権利でもあります。
政治学者の丸山真男さんが『「である」ことと「する」こと』という著作(高校の国語の教科書で習った方もいるでしょう)の中で憲法十二条「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」を引いています。
その上で「この憲法の規定を若干読みかえてみますと、「国民はいまや主権者となった、しかし主権者であることに安住して、その権利の行使を怠っていると、ある朝目ざめてみると、もはや主権者でなくなっているといった事態が起こるぞ。」という警告になっているわけなのです。」とした上で、
「近代社会の自由とか権利とかいうものは、どうやら生活の惰性を好む者、毎日の生活さえなんとか安全に過ごせたら、物事の判断などはひとにあずけてもいいと思っている人、あるいはアームチェアから立ち上がるよりもそれに深々とよりかかっていたい気性の持ち主などにとっては、はなはだもって荷やっかいな代物だといえましょう。」と指摘しています。
 
 これまで「何となく」や「偉い人まかせ」で済ませられていた時代が国民投票法の成立で終わってしまいました。
責任の重さに思いをはせるとクラクラしそうですが、本来憲法は私たちのものです。
「偉い人」や「学者さん」だけのものにしないよう、頑張って学んでいかねば・・・と思う日々です。

 そんな学びに「憲法カフェ」はいかがでしょう(笑)