今日は東京大空襲63周年(2月23日の憲法カフェの報告です)


表題のとおり、今日3月10日は東京大空襲があった日です。
先月の憲法カフェ(「東京大空襲」のDVDを観て意見交換)の報告をいたします。

もしも戦争を知るために、

もしも戦争という、暴力のわたしたちが想像しうるひとつの極みを知るために、

その被害や、あるいはその加害の直接の当事者となることがとても大きな意味を持つとするならば、

わたしたちは戦争を知らない世代と言われるだろうし、

60年前のあの戦争を知る人は確かに、いや摂理として、減少の一途をたどっていると言われるかもしれない。

けれども、世界のどこかで、ではない。

減少という「現象」そのものは、わたしたちにとって直接の、痛切な体験――それは近しい肉親や隣人との死別であり、あるいはそのそもそもの欠落だった。

父の父は空襲で千葉市を焼け出され、農家の納屋に食うや食わずの仮寓をしていた戦後のある未明、畑の見回りに出たまま急死した。

残された母親とともに弟たちを育て、遅い結婚で生涯家族のために働き詰めた、温厚さ誠実さと表裏の保守的な家長だった父は、晩年に小泉改革への呪詛を吐きだし周囲を驚かせた。

そんなストーリーとして教えられなくても、普段それと意識されないだけで、あの戦争はいまなお生活のなかに隠しようもなく存在しているにちがいない。ときにそれは傷跡にたとえられながら。

わたしたちは新しい戦争に直面しているばかりではない。

わたしたちの感情に深く影を落とすあの欠落や死別は、わたしたちが過去の戦争の被害と加害とからも無関係ではありえないことを物語り続けているように思う。

だけれども、この日の憲法カフェは、あの戦争をめぐり心に刻むのはそれだけでも足りないことを知る、そんな場になってしまった。

さて、小難しい書き出しなってしまいましたが、2月23日(土)に行われた出張憲法カフェVOL9の報告です。ふだんは現行憲法自民党憲法草案の読み比べや、そこに関わる社会問題などの勉強会をしている憲法カフェですが、今回は番外編として「東京大空襲 60年後の戦災地図」という報道番組(2006年・NHKスペシャル)のDVDをみんなで観て自由に話し合うという企画でした。規模もいつもより小さく予測していて、国立にあるヘーゼルナッツというフリースペースで集まったのですが、6畳のスペースに15人ぐらいの人に集まってもらえて、かなり盛況の感がありました。場所代に紅茶、サンドイッチ、豚汁、おこげのご飯がついて参加費500円。(料理長、おつかれさまでした!)

映像の内容は、このブログの予告にもあったとおり、悲惨極まりないと言って言いあらわしきれないことに思い当たり、言葉を失うほどのむごたらしさを伝えていました。そこで受けた衝撃をこうして文章で伝えようして、いつもの報告文のようにリポートから書きはじめることができずに、あんな回りくどい書き出しになってしまったのでした。いつもまじめなテーマを扱いながら誰でも気軽に話し合える場をつくろうしてきた憲法カフェとは逸れるイメージですが、憲法カフェがそんな場を提供してくれていたからこそ悲しい内容にも真摯に向き合えたと、半年ほど参加させてもらってきた自分としては思います。

 

1945年3月10日未明、当時およそ100万人が生活していた東京下町地域はアメリカ軍よる未曾有の大空襲にさらされ、10万人もの人々が焼き殺されました。映像はそうした大枠のところのナレーションから入っていき、当時の現場をCGで再現する場面と、実際の体験者のインタビューシーン。だいたい大きく分けてこの3つの構成で作られていました。圧巻は証言のシーンですが、この3つの視点は織り交ぜられ相互にリアリティを高める効果があるように思いました。というのは、一つ一つの体験談を聞きながら、CGをまじえての現場検証で、超高熱の炎が避難所のコンクリート校舎の中まで焼きはらい反対側の窓も突き破り滝のように流れ出す様や、惨禍を巻き起こした焼夷弾を作ったアメリカ軍側の映像、それが家屋を突き破り室内で爆裂する瞬間の再現、そして軍司令部の意図をも超えてはるか遠くまで焼け野原となった当時の写真、等々を見せられた後では、たとえばCGの地図上を動く点によって人々の避難経路をマクロに示す場面があるのですが、これがただのグラフィックの点には少しも見えなくなる。

その点の中のひとつは、生まれて間もない娘をおぶって渡し舟に避難したある生存者の老婆。船に乗れなかった夫は水の中で力尽きて倒れ、自身もあまりの疲労にそこで眠りに落ち、気がつくと娘の息も絶えていたといいます。死者10万人と言われればなかなか想像するのは難しい歴史のなかの数字ですが、ひとつひとつの重みに向き合う努力をせざるをえなくなるような、そういう訴えに成功した映像作品だったと考えています。ですが、一人の死だってわたしたちにはわからない。これはもう頭では処理できません。息苦しくなるばかりで、あの日会場の重たい空気も各人のそうした淀みをたたえていたにちがいありません。ごめん、書いてて泣きそう。

それでもあきらめたように言葉を語りだす参加者たち。重苦しい会のようですが、そんな空気も集まったみなさんと共有できたのは救いであったと思います。「アメリカに対してというより、ここまで人々を犠牲にした日本の総動員体制に怒りをおぼえる」。「被災地の映像、いまの亀戸のドンキになってるところとわかり、現実味が迫る」。「サバイバーの具体的な話、日常的にわたしたちの血肉となっていない」。「資料館もないし映画になっていないのもおかしい」。「1945年、敗戦が確定してからどれだけ死ななくていい人が死んだのだろう」「アメリカから見れば自国民の犠牲減らすという理屈。硫黄島の反省があって本土空爆があり、ベトナムの反省があってアフガン、イラク空爆がある」。発言者それぞれの思いはありますが、語り継ぎの大事さというのはみんなの思うところだったようです。死んだ人のことはなにも解決できないし、けっして前向きな方向に話が向くことはなかったのですが、それでもあの人たちのことを少なくとも忘れてはいけないし、忘れさせる力が働いているかのような現状への違和をみなで表明したのでした。

報告者の感想を付してまとめに代えます。参加者の一人からも「あそこまでの証言はいままでなかった」という意見の出た、もう一人の生存者の語りがありました。避難所のプールに逃げ込み、超満員のなか無我夢中で押し合いのパニックに耐えるのですが、夜が明けると連れていたはずの妹がいなくなっていて、そして……、プールの底から変わり果てた姿で発見されたのでした。「俺が殺したのかと思ってね…ずっとね…」。

「悩みましたか?」というインタビュアーの問いに、返す答えは涙声で、「泣いたよ」、でした。被害者でありながら自責を伴う証言の重み、それに遭遇して「悩みましたか」という言葉はいかにも日常的で場違いです。問いと答えの不整合、というのは、「悩み」はふつう解決してゆくものであり、ここでも過去形で問われているのに対して、「泣いた」と答える側はいまなお声をふるわせ未解決のなかにいることがわかるし、泣くということにはそもそも解決不能だから泣くしかなかったというニュアンスがあります。この場面を見てドギマギしてしまった自分もきっとこの人を前にしては同じく場違いなのだろうと思い、当日も少し述べたのですが、現状の社会問題と取り組むだけでなく、どこか死者とともにあるような思考というか文化が望まれているように思います。