10月27日出張憲法カフェ報告

kenpou-cafe2007-10-28


 10月27日の憲法カフェは、最近話題になっている『新自由主義』(デヴィッド・ハーヴェイ著)の訳者の一人である木下ちがやさんをゲストに招いて、「新自由主義憲法自由を考える」というイベントを開催しました。

新自由主義とは?

 「新自由主義」(ネオリベラリズム)とは、「国家や政府などの介入を排して、市場の自由に委ねれば、みな、豊かになれる」という思想であると言われています。ところが、新自由主義が実際に行っているのは、規制緩和や民営化、税制改革、福祉の切り捨てといった政策で、これでは金持ちはますます金持ちになり、貧乏人はさらに貧乏になるばかり。日本でも、特に小泉政権以降の新自由主義政策(「改革」)によって、社会の格差が広がっているのですが、それは多くの場合、「自己責任」(「勝ち組」「負け組」)といったような言葉で片付けられてしまいます。

 けれども、「勝者が全てを手に入れる」(「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」的)社会は、どう考えても私たちの多くにとっては居心地が悪いはず。いったいどうして、多くの人が望まないはずの新自由主義がここまで世界に広がってしまったのでしょうか。

 その答えは「自由」というマジックワードにある――と、木下さんは言います。新自由主義は、人々の自由への欲求を利用して、多数派を形成していきます。たとえば、こんなふうに。

  • 1999年 労働者派遣法「改正」:それまで専門職に限定されていた派遣労働が原則自由化された。これによって、私たちは「多様な働き方を自由に選択できる」と説明される。
  • 2007年 非正規雇用者(いわゆるフリーター)が全雇用者の三分の一に増加。日本の世帯の十分の一以上が、働いても働いても貧乏から抜け出せない「ワーキングプア」になる。

●自由とは?

 実は、「自由の国アメリカ」(今はワーキングプア大国ですが)でも、憲法が保障する「自由」は、金持ちや企業にとっての自由にすぎませんでした。20世紀初頭には、児童労働を10時間(!)に規制する法律さえ、「個人と個人の契約の自由」を侵害するとして、違憲判決を受けたのです。

 けれど、貧富の格差が拡大する一方で、それに対抗する社会運動も活発化してきます。貧しい人々は、「パンとバラ(人間の尊厳)」を掲げて、表現の自由と労働者の権利を要求するようになりました。1960年代には公民権運動(人種間の平等を求める運動)とベトナム反戦運動を通じて、人々は自らの手で権利を勝ち取り、憲法が保障する「自由」を、より豊かな価値観へと発展させてきました。

 つまり、「階級的、人種的、ジェンダー的公正と手を携えてはじめて」、本当の自由が実現するわけなのですが、この関係を切断しようとするのが新自由主義なのです。生まれたときから別々のスタートラインに立たされるアンフェアな「自由」競争によって、私たちの人生が決定されてしまう――新自由主義はそんな社会を私たちに「自由」に選ばせようとしています。

憲法とは?

 では、私たちはどうすればよいのでしょう?木下さんは、「憲法は、ただ字面を追って一言一句を『護る』ようなものではなく、私たちが直面している疑問をきちんと捉え、新しい可能性を希求する中で改めて『発見』することで、はじめて中身が与えられていくもの」であると言います。言い換えれば、私たちが社会的公正と結びついた自由を求めることができない限り、憲法もまた私たちを護ってくれることはない――ということなのかもしれません。

 では、私たちはどうすれば、自分のために、そして他者のために、憲法を生かすことができるのでしょうか。憲法カフェでは、そのきっかけを作るためのイベントを、11月24日(土)に開催します。「格差×戦争 〜若者のリアルと憲法〜」では、ワーキングプア、生きづらさを抱える若者への取材を続ける雨宮処凛さんと、米軍にリクルートされる貧困層ルポルタージュを執筆した堤未果さんを招き、私たちが憲法をどうとらえるのか、みなさんと一緒に考えていきたいと思います。

 「貧乏人だけが嫌な思いするのってズルイと思わない?」――あなたの答えは?(kanti)

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