【緊急】10月26日夜現在、台風接近中&木下さんの当日レジュメ

kenpou-cafe2007-10-26


ご存じ、台風接近中。
【屋内でやる可能性が高まっています。当日の最終判断は13時にします。必ず13時にマルイシティに集合するか、遅れる方は080-5179-4056(担当・園)に連絡して集まりが今どこにいるかを聞いて下さいませ。直接代々木公園には行かないで下さい。】
マルイシティ:http://www.0101.co.jp/stores/guide/store140.html?link_id=link140
雨の場合:そこから渋谷東口の「カフェ・ミヤマ」の会議室に移動して14時からトーク
http://www.ginza-renoir.co.jp/miyama/index.htm
曇りの場合:予定通り代々木公園けやき並木で音楽とともに。

そして、木下ちがやさんの当日レジュメは以下です!

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新自由主義憲法自由を考える
木下ちがや

新自由主義とは?
新自由主義の思想…「国家や政府などの介入を排して、市場の自由に委ねれば、みな、豊かになれる」

新自由主義がやったこと…規制緩和、民営化、税制改革、福祉の切り捨て…

〈どんな社会が生まれたか〉

アメリカ…次回

イギリス…
「ほんの小さなこどもでさえ、「勝者がすべてを手に入れる」に直面している。
それはBHS(日本でいえばユニクロみたいなもの)のトレーナーを着ているこどもたちが、遊び場でナイキの靴を履いた子どもに出会うときである。また中学生も同じである。それはNEXT(これもユニクロみたいなもの)の服を着ている中学生の前に、仲のよい友人がDKNY(高級ブランド)の服をきて姿を現わしたときである。
しかし、人びとがいやというほど直面するのは職場である。そこで人びとは毎日のように「人生とはじつに不公平なものだ」ということを思い知らされている。このような競技場では、正義(公正)はほとんど死に瀕している。

人びとの仕事の内容と支払われる報酬は、全くつり合っていない。ジョン・レスリーを例にとってみよう。かつてテニススターだった彼は、その後スミス・クライン・ビーチャム社の経営者となり、現在ではイギリスで最高額の給与が支払われている。このウィンブルドンの競技者と、かつてのライバルだったイリ・ナスタシは、たった一時間でロンドンの学校教師の一年分の所得を稼いでいるのだ。何百人もの人びとの未来がレスリーの手に委ねられている。

なぜなら、彼の会社は世界で有数の救命ワクチンの製造会社だからである。
そして、彼は会社から六五〇〇万ポンド(約一六億円)の年収が支払われているだけではなく、同社の実権を握ることでさまざまな恩恵を被っている。
彼と同じだけ稼ごうとしたら、学校教師であれば三〇〇〇年も働き続けなければならない。しかし、学校教師は在職中に一二〇〇人以上の若者に対して、彼らの人生を正しく導くことができる。
彼にかかる費用の少なさに対して、彼が社会に与える恩恵は計り知れないのである…」the Guardian,17,April,1998.

新自由主義社会とは「勝者が全てを手に入れる」社会である。ではなぜ、
多くの人が望まないはずのこんな社会になってしまったのか――――「自由」の
問題。


●「自由」というマジックワード…多数派を形成するために、
新自由主義は人びとの自由への欲求を、(もちろんねじ曲げながらだが)取り込
んでいく。


●なるほど、新自由主義は自由のユートピアを約束した。でも本当にそうなった
の?
本当に私たちは自由に生きられるようになったのだろうか?


憲法修正第一条 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。(1791年)
日本国憲法 第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第21条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する/検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。(1947年)


●「自由の国アメリカ」−しかし自由は所与のものではなかった。憲法の言う「自由」とは「個人と個人の契約の自由」である!(ロックナー判決)


●一九世紀〜二〇世紀初頭のアメリカは、まさに「勝者独り占め」の世界、そして自由抑圧の世界


●映画「ブレッド・アンド・ローズ」(ケン・ローチ)/もともとは二〇世紀初頭のアメリ労働組合IWWのスローガン。「パンとバラ(人間の尊厳)」を掲げたことの意味。
・IWW「表現の自由闘争」と第一次世界大戦下の弾圧。


●自由獲得の軌跡は「勝者独り占め」との闘いの軌跡でもあった。
・1937年、連邦最高裁、ワグナー法(労働関係調整法)に合憲判決。
・1939年、ミシガン州フリントで「シットダウン・ストライキ」。
映画「ロジャー・アンド・ミー」(マイケル・ムーア)。


●「自由」の本格的展開
・1950年代のマッカーシズム−沈黙する憲法
・1955年−人種隔離政策に違憲判決
・1960年代−公民権運動とベトナム反戦運動最高裁表現の自由規制立法に次々と違憲判決。


●「自由」は、階級的、人種的、ジェンダー的公正と手を携えてはじめて自由たり得る。
憲法的自由は、20世紀、こうした社会的な闘いを受けてバージョンアップした。
しかし、新自由主義はこの両者の関係を切断しようとする。例えばこのような自由観:

「理想的状況にある個人はみな、完全な行動の自由を認められ、自分自身の欲望に固執するために他人の行動を妨げる。つまり、各人は大量の奴隷を支配することを望むのである」
ジェームズ・ブキャナン/1986年ノーベル経済学賞受賞)

(とりあえず終わりに)
こういうブキャナンがいうような「自由」が本当に自由なんだろうか?自由に生きたいという人間の生得的な要求と歴史的な成果を取り戻し発展させていくうえで、今何が必要なのだろうか。憲法は、ただ字面を追って一言一句を「護る」ようなものではなく、私たちが直面している問題をきちんと捉え、新しい可能性を希求するなかで改めて「発見」することで、はじめて中身が与えられていくものだと思います。

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